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狐に化かされたような日々を送っておりました。
少しずつ、これまで通りの多忙な日常が戻ってきています。


夢とは得てして、いずれ醒めてしまう儚いもの。
だからこそ、その瞬間が楽しくて、大切なものだと思えるのです。


先日、久しぶりに行った新宿マルイカレンのヴィレッジヴァンガードにて、とても素敵な本と出会いました。
萩原朔太郎の『猫町』というタイトルの絵本です。
とても素敵な装丁で、一目で購入を決意しました。


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朔太郎の詩が心から好き、という事もありますが、何よりも彼の散文詩がこのような形で出版されている事に大いに喜びを感じたのです。
一時は研究も盛んに行われていた詩人ではありますが、世の脚光は宮沢賢治や中原中也といった作家に移ろい、萩原朔太郎という詩人は、色あせるかの様に少しずつその姿を世間から隠しつつあります。
私はそれが残念でなりません。


詩が好き、小説が好き。
そんな私が心から好きだなぁ、と思えるのが散文詩です。
中でも、萩原朔太郎の散文詩には美しく儚い幻想が表現されているので、別格だと思っています。


萩原朔太郎の『死なない蛸』という詩をご存知でしょうか。
私が初めて意識して読んだ散文詩です。
その頃私はまだ中学生で、詩というものは歌詞やポエムでしか知らず、朔太郎や犀星らの近代詩への造詣はまだ皆無でした。
そんな私の心を鷲掴みにして放さなかった、そんな詩です。


まずは、是非本文を読んでいただきたいと思います。




“ 死なない蛸


 或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢ゑた蛸が飼はれてゐた。地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂つてゐた。
 だれも人人は、その薄暗い水槽を忘れてゐた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思はれてゐた。そして腐つた海水だけが、埃つぽい日ざしの中で、いつも硝子 窓の槽にたまつてゐた。
 けれども動物は死ななかつた。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覺した時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢饑を忍ば ねばならなかつた。どこにも餌食がなく、食物が全く盡きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後 に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臟の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順順に。
 かくして蛸は、彼の身體全體を食ひつくしてしまつた。外皮から、腦髓から、胃袋から。どこもかしこも、すべて殘る隈なく。完全に。
 或る朝、ふと番人がそこに來た時、水槽の中は空つぽになつてゐた。曇つた埃つぽい硝子の中で、藍色の透き通つた潮水(しほみづ)と、な よなよした海草とが動いてゐた。そしてどこの岩の隅隅にも、もはや生物の姿は見えなかつた。蛸は實際に、すつかり消滅してしまつたのである。
 けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠にそこに[#「そこに」に傍点◎]生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた 水族館の槽の中で。永遠に——おそらくは幾世紀の間を通じて——或る物すごい缺乏と不滿をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。





一見、ただの小説の様ですよね。
けれど、短編小説とも違い、独特の世界観を有しています。
梶井基次郎の一連の作品や、川端康成の『掌の小説』もまた、散文詩の一部といっても差し支えが無いかもしれません。


今回例に挙げた朔太郎によるこの散文詩は、彼の持つ、幻想的でそこに内包されるグロテスクな様相、そしてそこから生じる美しくも悲しい世界観が表現されています。初めて読んだときは、まるでトラウマのように頭から離れず、何度も教科書を取り出してはこの世界観に没頭したものです。


私は大学で萩原朔太郎を専攻していますが、未だこの詩人を理解するまでの域に達していません。
どんなに読み進めても、どこか宙をつかんでいるだけの解釈しかできず、己の未熟さを痛感させられる日々です。
感情の表現とは、一見思った事を書けばそれでいいと思われる事でしょうが、実際、己の感情を確実に表現するという事は、何よりも難解なものだと考えます。
いいえ。感情を表現する事だけなら、もしかしたら、だれでもできる簡単な事なのかもしれません。
でも、感情の神経に触れる事は?
人には肉体と精神が存在する。
肉体に神経が存在するなら、精神にも神経が存在して斯くあるべきだと私は考えるのです。


萩原朔太郎は、『月に吠える』の序にてこのような事を述べています。



『序

詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹することのためでもない。詩の本来の目的は寧ろそれらの者を通じて、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。

 詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である。

 すべてのよい叙情詩には、理屈や言葉で説明することの出来ない一種の美感が伴ふ。これを詩のにほひといふ。(人によつては気韻とか気稟とかいふ)にほひは詩の主眼とする陶酔的気分の要素である。順つてこのにほひの稀薄な詩は韻文としての価値のすくないものであつて、言はば香味を欠いた酒のやうなものである。かふいふ酒を私は好まない。
 詩の表現は素樸なれ、詩のにほひは芳純でありたい。

 私の詩の読者にのぞむ所は、詩の表面に表はれた概念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感触してもらひたいことである。私の心の「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言ひ現はしがたい複雑した特種の感情を、私は自分の詩のリズムによつて表現する。併しリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である。そのリズムを無言で感知することの出来る人とのみ、私は手をとつて語り合ふことができる。

 『どういふわけでうれしい?』といふ質問に対して人は容易にその理由を説明することができる。けれども『どういふ工合にうれしい』といふ問に対しては何人(びと)もたやすくその心理を説明することは出来ない。
 思ふに人間の感情といふものは、極めて単純であつて、同時に極めて複雑したものである。極めて普遍性のものであつて、同時に極めて個性的な特異なものである。
 どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音楽と詩があるばかりである。

 私はときどき不幸な狂水病者のことを考へる。
 あの病気にかかつた人間は非常に水を恐れるといふことだ。コップに盛つた一杯の水が絶息するほど恐ろしいといふやうなことは、どんなにしても我々には想像のおよばないことである。
 『どういふわけで水が恐ろしい?』『どういふ工合に水が恐ろしい?』これらの心理は、我々にとつては只々不可思議千万のものといふの外はない。けれどもあの患者にとつてはそれが何よりも真実な事実なのである。そして此の場合に若しその患者自身が……何等かの必要に迫られて……この苦しい実感を傍人に向つて説明しようと試みるならば(それはずゐぶん有りさうに思はれることだ。もし傍人がこの病気について特種の智識をもたなかつた場合には彼に対してどんな惨酷な悪戯が行はれないとも限らない。こんな場合を考へると私は戦慄せずには居られない。)患者自身はどんな手段をとるべきであらう。恐らくはどのやうな言葉の説明を以てしても、この奇異な感情を表現することは出来ないであらう。
 けれども、若し彼に詩人としての才能があつたら、もちろん彼は詩を作るにちがひない。詩は人間の言葉で説明することの出来ないものまでも説明する。詩は言葉以上の言葉である。

 狂水病者の例は極めて特異の例である。けれどもまた同時に極めてありふれた例でもある。
 人間は一人一人にちがつた肉体と、ちがつた神経とをもつて居る。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。
 人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。
 原始以来、神は幾億万人といふ人間を造つた。けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかつた。人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。
 とはいへ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。
 我々の顔は、我々の皮膚は、一人一人にみんな異つて居る。けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。そして我々はもはや永久に孤独ではない。

 私のこの肉体とこの感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解してゐる人も一人しかない。これは極めて極めて特異な性質をもつたものである。けれども、それはまた同時に、世界中の何ぴとにも共通なものでなければならない。この特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』とが存在するのだ。この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らない。

 詩は一瞬間に於ける霊智の産物である。ふだんにもつてゐる所のある種の感情が、電流体の如きものに触れて始めてリズムを発見する。この電流体は詩人にとつては奇蹟である。詩は予期して作らるべき者ではない。

 以前、私は詩といふものを神秘のやうに考へて居た。ある霊妙な宇宙の聖霊と人間の叡智との交霊作用のやうにも考へて居た。或はまた不可思議な自然の謎を解くための鍵のやうにも思つて居た。併し今から思ふと、それは笑ふべき迷信であつた。
 詩とは、決してそんな奇怪な鬼のやうなものではなく、実は却つて我々とは親しみ易い兄妹や愛人のやうなものである。
 私どもは時々、不具な子供のやうないぢらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。さういふ時、ぴつたりと肩により添ひながら、ふるへる自分の心臓の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。その看護婦の乙女が詩である。
 私は詩を思ふと、烈しい人間のなやみとそのよろこびとをかんずる。
 詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。
 詩を思ふとき、私は人情のいぢらしさに自然と涙ぐましくなる。

 過去は私にとつて苦しい思ひ出である。過去は焦躁と無為と悩める心肉との不吉な悪夢であつた。
 月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽霊のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。
 私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて来ないやうに。

萩原朔太郎  』

引用=底本:「現代詩文庫 1009 萩原朔太郎」思潮社
   1975(昭和50)年10月10日発行



感情の世界は狭くて広い。
自分ですらその感情を理解する事ができないのに、それを不特定多数の人間に対して発するということ自体、そう簡単な事ではないのでは?

こんなことをぐるぐる考え続けていたら、なかなか思うような論文を仕上げる事ができず、前期は散々な結果となってしまいました。文学、と一言で言うにしても、それぞれ表現される対象、その意志には大きな違いがあるでしょう。作家にしかり、一人の作家の内でも異なるかもしれません。

例えば、私は漱石がキライです。
彼には表現力も、ユーモアもある。
けれど同時に、余裕もある。
だから私には相容れない作家なのです。


とはいえ、私の友人の多くも漱石研究をしているので、彼らの話を聞いたり、実際に著作を読んだりしています。が、やはりどうしても受け入れることのできない壁があるのです。
漱石はこころは表現しても、感情を表現しない。無感情にさえ思える。
だからでしょう。身近に感じる事ができない、それも大きな理由です。
表現が暗い、とか、そういう点に関しては時代性というものもありますし、もし、他の作家を取り上げて比較するならば私は太宰を取り上げます。硬派の漱石、軟派の太宰といったところでしょうか。どうしても、自意識や自我についてこだわりすぎている、堅く知識的に書きすぎている、そんな点がどうしても受け入れられません。
取り方にもよりますが、どうしても漱石の文章って押しつけが強く感じてしまうんです。


一方、朔太郎に関しては、知識に関しては漱石とは比較のしようがありません。時代の前後はありますが、漱石は当時のエリートコースを行きましたし、朔太郎は脱落者としての道を歩みます。
漱石と比較する事自体ナンセンスであるという事も承知の上で比較しています。
(これは私の個人的な印象でしかありませんが、太宰と朔太郎を割と同種として捉えています。)


早い話、私は知識を踏まえた上での完璧を目指すような文章が好みではない、といった所でしょうか。
たとえ悪文であったとしても、己の感情の有するところを表現する書き手に興味を抱くのです。


研究をするという点からすれば、朔太郎よりも漱石の方がプロセスとしてもやりやすいです。
だけど、私はやはり、朔太郎が好き。
その詩の内側に籠められた感情を知りたいと思う。


後期は、『月に吠える』の中でも特に好きな詩である、『内部に居る人が畸形な病人に見える理由』という詩を取り扱います。正直、今迄接してきたどんな詩よりも繊細で扱いにくいものだと思っています。
けれど、教授とのお話からもそうですが、とても深い詩である事には変わりはありません。
今年はこの詩集をひたすら学ぶつもりですが、同時に『青猫』や『蝶を夢む』を読み、最終的には散文詩の方で論文が書けたらいいなぁと考えています。
『猫町』ももちろん候補の一つ。


長くなりました。
文章を書くとき、流れや内容をきちんと考える訳ではないので、脱線したり迂回することも多いです。
何が言いたかったかと言いますと、もっと今の人達には近代詩に触れてほしいという事。
近代詩とは言わずとも、せめて詩は「読む」ものであるということを知ってほしいということ。


そんなことを思いつつ、今日も『猫町』を片手に眠りにつこうと思います。


おやすみなさい。
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